変わる人と、変わらない人。
この記事を書いた時は確か、12月の22日くらいで、思いっきり感情的にだった彼氏に「別れよう」と言われた直後だった。
この記事を書き終えて、さて、投稿しようか、というときに、電話が来て、仲直りしたいと言われた。長い電話だった。
その後、会いたいという彼の吉祥寺のアパートまで会いに行った。
その時の文章が結構自分的に気に入っていて公開したかったので、しちゃおうかなと思う。
彼氏とは今も距離をとっている。喧嘩が多い。
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好きな人と別れた。
すっごく好きだった〜、と頭をかかえるのだけれど、最近、その別れた好きな人のおかげで「一人で生きていく準備」みたいなのをしていたこともあってか、今はなんだか、冷静だ。
「好きな人」は以前の記事を読んでもらったらわかるかもしれないけれど、例の、「初めて、彼氏ができた、というより、好きな人ができた、という感覚」になった相手だった。
すごい、この記事を書いたの15日前じゃないか。
1ヶ月しか付き合えなかった人なんて初めてすぎて、そこには確かに少し動揺している。
今まで私は、歴代の彼氏のことを、どこかメリット・デメリットで見ていて、相手に勝手に期待をして、がっかりして、好きじゃなくなって、でもまだ期待し続けてダラダラ付き合い続けて、みたいなことを繰り返していたように思う。
好きな人と出会って違ったことは、相手に期待とか、自分にメリットがあるかどうかとか、ほとんどしない・考えなかったことだ。
これがまた、好きな人の考え方とは全く違っていて、それも別れる原因の一つだったかもしれない。
好きな人はもちろん、私に対してメリットもデメリットもカウントしていた。それって普通だよな、とも思う。
デメリットが増えたから、別れたい。非常に合理的で、簡潔で、わかりやすくて、いいと思う。そういうところを尊敬していたし、憧れてもいた。
好きな人は、「一生一人でもいいと思っている」と私に話したことがある。
それを聞いて私は、この人を好きな限り、私も一生一人なのかもしれないなあと思って、一人で生きていく準備を始めた。
主にお仕事関係を頑張ろう、というところでもあるし、結婚観とか、結構変わった。
今日、書きたいなと思ったのは、変わる人と、変わらない人について、だ。
もうすっかりバレていると思うけれど、私は相手によってめちゃくちゃ変わるタイプの人間だ。
どの彼氏と付き合っていた時の自分も、全部本当の自分なのは間違えないけれど、相手がより喜ぶならとか、相手に嫌われたくないからとかで、自分をどんどん変える。
デートの時の服装も、料理のレパートリーも、考え方も。それが苦じゃなかったりする。
苦じゃない、と自分では思っているけれど、気づいていないだけで、当然本当はどこかで無理をしている。
そして爆発してしまうときがきて、私が付き合う相手はいつも、変わらない人だから、「それであなたが辛いなら、僕たち別れた方がいいですよ」と言われてしまう。
あ〜、となる。またやっちゃった。と。
自衛に自衛を重ねた上の自爆。とってもおばかで学習しないので、それの繰り返しだ。
こうやって書き出してみると、実は私も根本的には変わらない人だ。
表面上も「変わらない人」になりたいと思って、なろうとしたことがある。
そんなに好きじゃないままなんとなく付き合った人との時だ。
私はすごく依存体質なのかもしれないなあ、と気づいたけれど、この時もどうしたって相手にこうしてもらったら嬉しいと言われたら全然キャラじゃないこともやってしまった。嫌われたくないなあと思って、相手の好きそうな方に寄せていってしまった。
「嫌われる勇気」みたいなタイトルの本あったなあ。
そういうの読んだらいいのかなと思う。
「恋愛理論とかの本、読んだら。」
好きな人と別れ話をしているときに言われた。
自己啓発本とか、そういう、小説じゃない本。何度か読んだし、普通に面白い。
けれど、私は根は本当に頑固で、自分の根本の考え方は自分で決めたいからあんまり人の話を聞かないし、重大な決断も基本誰にも相談しない。
そいういところもばれてたんだろうな、と思う。
言われてインストールしたポケモンGOも、付き合っている間は「意外と楽しいじゃん…?」とか思っていたくせに、今となっては興味がもうほとんどない。
私は本当に表面上だけなんだなあ、でも私にとってはそれも本物なんだけどなあ、なんて思いながら、自分は実はじわじわと誰かを傷つけ続けているんじゃないかという感覚になる。
「嫌われる勇気」読んだらいいのかな、とか上に書いているけれど、多分自分からは絶対読まないんだろう。
彼を好きだった、でも彼にとって私は利益がなかった。
私にとっても、利益…?と考えるとわからない。
利益を求めなかったから、与えることもできなかった。
恋愛は難しい。
とりあえず、一生一人で生きていく準備をさせてくれたことに、感謝しよう。
明日からも生活しなくちゃいけない。
2019年振り返り
今年はなんか人生で1番濃い1年だったような気がしたので、今までこういう記事を書いたことはないのだけれど、初めて書いてみようかなと思った。
どういう風に書くのがいいのか、パッと思いつかないから、素直に時系列で書く。
「1月」
当時の彼氏と、佐賀に住んでいた彼氏のお友達の家まで車で行って、そこで年越しをした。
カニとか、お寿司とか、なんか美味しいものいっぱい食べた。
年越した数分間、お坊さんが鐘をついてるだけの映像を見てた気がする。
あれって毎年やっている番組ならしいですよね。私は人生で初めて見た。
海外でクリスマスに暖炉を映し続けるだけの番組があるらしいじゃないですか。
それと同じ感覚の番組なのかな。暖炉の番組も本当にあるのかは知らないけど。
「2月」
当時の彼氏と喧嘩ばっかりしていた気がする。
「3月」
多分別れたのが3月だった気がする。
「4月」
振られたしなんか始めようと思った。最初はバンドを組もうかなと思ってour soundsをひらいた。
そしたらもっと気軽にできそうな、アコギのサポートします!みたいな投稿を見つけた。
こうじさんがour soundsにいてくれてよかった。個人的に今年自分が始まったのは4月。
「5月」
彼氏ができた。Amazonプライムに登録して、映画を貪るように観るようになった。
今年は135本観た。この当時の彼氏には、映画や、「女性」というものの考え方に関して、かなり影響を受けた。
私に足首がないという話や、家族内の女性が全員海鮮ものを苦手なので、生魚を食べる私を見てギョッとしてしまったという話をした。
部屋が片付けられて、きちんと働いていて、借金がなくて、清潔な彼氏は初めてだった気がする。
高校生の頃の彼氏もすごくお部屋とかきれいだったろうし、きちんと働いていたし、借金なんてなかったと思うけど、なんとなくノーカウント。
「6月」
出ようと思っていた「ライブはじめました」というイベントに、お仕事のせいで出られなかった。
自らが手を動かす企画やデザインのお仕事よりは、少しディレクション寄りにお仕事内容が変わってた。
上手く自分の役割を理解できなくて、かなり悩んだ。
「7月」
TOY STORY 4を観た。私はシリーズの中で1番好きだし、3の終わり方だと、またいつまでも続くという感じだったのが、やっとちゃんと終わったという感じがしてよかった。
当時の彼氏の家にホームプロジェクターがやってきた。
私はこの辺でやっと、5年間付き合っていた元彼の借金を肩代わりしてからずっと続いていた「クレカ地獄」から抜け出せた。
やっと現金派に戻ってこられた!わー!がんばった!
と思ったら、世間にはキャッシュレス決済の波が来ていた。ピピって。
「8月」
6月の「ライはじ」に出られなかった私は、10月末のライはじに出ようと決めたので、軽い気持ちで「1曲くらい弾けるようになってみようかなと思う」と口に出してみた。
「2~3ヶ月あれば1曲は絶対に弾けるようになりますから。」
とこうじさんに言われて、やらねば、と思って練習を始めた。
夏休みは長かった。ずっと彼氏の家で過ごした。
「居酒屋メニューが食べたい」「吉祥寺のあのお店のあのメニューが食べたい」
食べたいものをはっきり言ってくれるタイプだったのでたくさん作った。
キッチンの使えないシェアハウスに引っ越してきて長いので、料理ができなくなっていたらどうしようと思ったけれど、全然できた。
あー、よかった。
「9月」
上司に辞めると伝えた。
11月いっぱいと言ったけれどダメそうで1月いっぱいと訂正したら社長に言ってみるから待っていてと言われた。
就活を始める。私にはもう、雑貨の企画デザインなんて向いてないんだ…とすごく落ち込んでいたのがマックスになっていた時期。
「10月」
彼氏と、普通の自転車に乗るときにヘルメットを被るか被らないかで意見が分かれたのをきっかけに、別れることを決めた。
合わないな、はずっとあったけど、まさか自転車のヘルメットの話で自分の心が決まるなんて思ってなかった。面白かったな。
元彼になった彼の家に、自分の荷物を取りにいった帰り道、都電の中で、
「彼と付き合わなかったら、都電なんて多分乗らなかった。大塚駅に降り立つこともきっとなかった。」
と思えて「これってエモい?」と思った。
彼とは上手くいかなかったけれど、人生で私を都電に乗せてくれて、ありがとうと思う。
そんな中で初めて人前で生演奏で歌を歌った。「ライブはじめました」の本番だった。
ギターびっくりするほど下手だし、歌もシンプルに下手なんだけど、なんか関わった人が全員いい人ですごくやってよかった。
あと何故かMCで私は大嘘をついた。「恋人と1年以上続いたことがない。」これは大嘘。
歴代、1年ちょい。5年。1年ちょい。5ヶ月だ。この5ヶ月っていうのが自分的に衝撃的すぎてMCでこんなこと言ったんだと思う。
今思えば彼氏と別れたことに、少しまだ動揺していたのかもしれないなあ。
こうじさんはもちろん、ゲストで普段「青とノクターン」というユニットを組んでいる千絵子さんという人が私の人生に登場した。
私この人のことすごく好きだ。びっくりした。歌う前から、あーこの人好きだなあと思った。
2月にもこの「ライはじ」に出る。驚いたけど、このイベントは「ライブはじめました!初です!」の人だけじゃなくて、2回目3回目と出ていいらしい。
何回も出ていいらしいけど、なんか、自分的には早めに次のステップに進めたらいいな、とか思う。
「11月」
彼氏ができた。お髭がいい感じの彼氏だ。お髭剃ってもいい感じ。
彼が告白してくれた日、私は実を言うととても体調が悪くて、私が好きだからと予約してくれていたおしゃれな餃子のお店でもほとんど食べられなかったし、お酒も1杯しか飲めなかった。
よく告白してくれたなあ、と思う。
私は「表情が暗い」とか「なんで真顔なの」とかよく言われてしまうけれど、この人は私の微妙な表情も読み取ってくれているのかもと少し思った。
この人のことは多分好きだ、と10月に初めて会ったときになんとなく一目でわかった。
この直感で物事を決めるの多分本当に良くないのだけれど、直感のおかげで今年は様々な人に出会えたのでよしとする。
「12月」
オリジナルの曲を、2曲作った。
最後の1週間くらいで1曲、2曲目は、2日間くらいで作った。
初めて作った曲は、なんか長い。2曲目は、なんか歌詞が重い 笑
自分のための作業ができるのすごく楽しいし、イラストをデジタルで起こせるのがすごく嬉しい。
せっかくオリジナルの曲ができたので、Macも買ったことだし、PVとか作ってアップロードしよう〜!とワクワクしている。
ボイスメモで、下手なギターだけれど、とにかく人目に晒していくことが大事みたいなこと聞いた気がする。
そうだなと思うので、この年末年始休みの間になんとかYoutubeにあげたいなと思う。
8月頃にギターを練習しはじめて、12月にはオリジナルが2曲あるとは思ってもみなかった。
なんかすごく充実していていい年だった。
本のこと、映画のこと、彼氏のこと、音楽のこと、それぞれで切り取って、何個でも記事が書けるなあと思うほど実がぎっしり詰まっているし、今までで一番休日に予定が入りっぱなしな1年だった。
お仕事が中心にならなかったのが初めてな年だったのかもしれない。
去年、会社の課内の忘年会で、みんなで来年の自分の抱負を漢字一字で表現した。
「6年4組」という渋谷の居酒屋で、きちんと藁半紙に習字で書いた。
私が書いたのは「穏」という字だった。去年の私は今年を穏やかな1年にしたかった。
全然違ったし、去年の私が思い描いていた1年よりももっといい1年になった。
来年は「出」がいいかな。もっといろんなところに出て行きたい。いろんな人に出会いたい。不必要な場所からは脱出したい。
やっと時間の使い方や、自分自身の受け入れ方・扱い方がわかってきた。
今年うまくできなかったことは、来年もっとうまくできるようになっているはず。
努力は人を全然裏切ると思う。でも努力し続ける自分でいてほしいなあ。
「やってよかったよ!すごく楽しかったよ。」と言っている未来の自分をイメージしながら、2020年も、たくさんのことに挑戦したい。
愛の夢 #4
「俺はパクチーがいいかな。」
と秋生が言ったので、春子は少し驚いた。
「どうして?パクチーなんて、嫌いって言う人が多いのに。」
パクチーのことは、春子も嫌いだ。
秋生も食べられないじゃないか、と今の議論と全く関係ないことがわかっているのに、小学生のような反論を心の中で呟いてしまう。
「好きな人にだけ、好かれればいいんだ。だから俺は、付け合わせ人気ランキング最下位でも、パクチーでいいんだ。」
ああ。と春子は思う。こういうところが好きだった、とお腹の底がじんわりと熱くなった。
秋生がそう言うと、春子にはそれが一番いいように思えてならなかった。それが正解だと思えてならなかった。
同時にこういう秋生の考え方が、春子には怖かったのだ、ということも思い出して、本当に電話を取ってみてよかったと初めて思った。
秋生と春子は、別れてよかったのだ。
付き合っている間秋生は、春子に不安ができたとき、それを理解し、謝ったり頭を撫でたり、優しくキスをしたりしたけれど、解決したことは一度もなかった。
別れを切り出したのは春子の方だった。けれど、
「俺のこういうところが春子を傷つけるなら、たしかに別れた方がいいと思うんだ。」
という秋生の言葉が、春子の中でしんしんと積もる。
切り出したのは春子だったのに、振られたのも、春子だったように思っている。
一度しか言われていないはずの言葉が、何度も心で繰り返したせいで、二度と除去し切れないほど深く積もってしまった。
「そっか、パクチーか。たしかに、秋生っぽいよ。」
電話口で、返事の代わりみたいに秋生が鼻をすすった。夏風邪かな、こじらせないでね、よく寝てね、と心の中で声をかける。
ひとつきの間、ほとんど毎日取らなかった電話を取って、開口一番、
「自分の存在を食べ物に例えると、なんだと思う?」
と言った春子に、付き合っていた頃と全く変わらない間で、付き合っていた頃と全くおんなじ話し方で、すぐに答えてくれた秋生は優しいと思う。
モテるよなあ、この人。と思いながら、通話をスピーカーに切り替えてスマートフォンを机の上に置き、春子はマスカラを塗った。
出かける予定はないけれど、春子は生まれて初めて、マスカラを塗っている。
「私これからは、マスカラを塗って、ビューラーを使おうと思うの。」
鏡に映る、間抜けな顔の自分を見ながら春子がそう言うと、なんとなく、秋生の息遣いが、電話の向こう側で変わったような気がした。
「俺、浮気なんてしてなかったんだ。」
春子の手が、止まった。
「それだけ伝えようと思ってたんだ。」
机の上のスマートフォンを見る。そこに秋生がうつっているみたいに。
「じゃあ。」
と言う声が聞こえて、通話が切れた。
「待って。」
春子が言ってももう遅くて、通話は切れたあとだった。
「待って、待って、待って。」
コームを戻さないままマスカラを机に放ってスマートフォンを手に取り、秋生にかけ直す。
プルルルル、プルルルル、
マスカラのなんの成分で出来ているのか1つもわからない液体が、机の上に小さな汚れを作っていく。
プルルルル、プルルルル、
春子はこれからは上を向いたまつげに、自分も上を向かせてもらおうと思っている。
プルルルル、プルルルル、
知っていた、本当は知っていた。
秋生が多分浮気なんかしていないことも。
けれどそれを信じてどっしり構えるほどの度量が春子にはなかったことも。
どちらも悪くないんだということも。
「もしもし。」
あ、出てくれるんだ、と春子は思った。
何を伝えたくて電話をかけたのかなんてわからなかった。
「私のこと、食べ物に例えるとなんだと思う?」
こんな雑談に、意味はないのに。
好きな人ができた
二十五歳にして初めて、彼氏ができた、というより、好きな人ができた、という感覚を持つ。
好きな人は今までに出会ったことがないような男の人で、初めてがたくさんだ。
好きな人は、とてもクリエイティブだ。
もともと私は、絵を描くのが好き、映画が好き、ミュージカルが好き、文章を書くのも読むのも好きだ。
最近はギターも始めて、いつか曲を作りたい。
だけれど、別にストイックにどれかをやり続けてはいない。
それでも偶然、今まで私よりもクリエイティブなことが好きな人と付き合ったことがなかった。
生み出すよりは、批評するタイプの人ばかりで、だから、私の今の好きな人は、すごく特別だ。
好きな人が、私のことを短い文章にして、自分のサイトに載せてくれた。
「読んでもいい?」
と聞いたら、
「いいよ」
と言ってくれたので、深夜に、好きな人の部屋で、好きな人の弾くギターの音を聞きながら、読んだ。
簡潔なのに心情が詰まっていて、文字がさらさらとあたたかいアルコールに変わって、私の身体全体に溶けて広がっていくみたいな文章だった。
この人と一緒にいたら、私のことや、ふたりのことを、こんな風に書いてもらえるんだ。
こんな風に、感じてもらえるんだ。
と思ったら少し泣きそうになった。
泣かなかったけれど。
好きな人は、たしかめたがる。
好きな人は
「俺のことなんて好きじゃないでしょ?」
とよく聞いてくる。自信がないらしい。
この質問はこんなに困るものだったのか、と身をもって知った。
優しい目が好き。
お髭が好き。
喋り方が好き。
好きなものに囲まれているお部屋が好き。
なんとなく、全体的な雰囲気が好き。
好きって言ってくれるところが好き。
こんなたくさんのことを言っても、好きな人は安心しないみたいだった。
わかる、と思う。
私が言っていることは全部、他の誰かでもあり得てしまうことで、だけれど私が好きなのはあなただけだと分かってもらえる言葉が全然出てこない。
私が伝えたいのは、あなただから、というところなのに。
それで仕方なく、
「全部。」
と言う。
この、全部、の信頼性のなさもすごいと思う。
この質問にいつかきちんと答えたくて、最近は電車の中で本を読まずにこのことばかり考えてしまう。
それで、月に1冊以上は読むと決めていたのに、11月は1冊も読みきらなかった。
好きな人は、ポトフをつくる。
ポトフだけじゃなくて、私が食べたいと言ったものを、作って待っていてくれる。
初めて作ってくれたのが、ポトフだった。
「バジル、大丈夫?」
と言って、頷くとバジルをちらしてから出してくれた。
そもそも彼氏のお家にバジルがあることが私からしたら驚きだった。
実はポトフをそんなに好きじゃなかったのに、この日食べたらすごく美味しかった。
食わず嫌いだったのかな、と考えてみて、給食のポトフが好きじゃなかったんだ、と思い出した。
好きな人のポトフはすごく美味しかった。
次の日、好きな人が真剣な顔で
「ごめん。」
と言った。
振られるのか、と思っていたら、
「ポトフはバジルじゃなくてパセリだった。
似ていたから、間違えた。」
そもそも私だったらどちらも入れないし、そんなのどっちでもいいのに。
好きな人にとっては重要だった。
どっちも家にあるところがすごい。
「すっごく美味しかったよ。」
と伝えた。
好きな人はなかなか安心しないみたいだった。
この人が、どんな時に泣いて、どんな時に怒って、どんなときに幸せだと思うのか、知りたいなと思う。
そういうのがわかるところまで、振られないでいられたらいいなと思う。
できれば、私がこの人のことを、笑わせて、幸せな気持ちにさせたいなと思う。
そういうことができるようになるまで、一緒にいられたら、もうずっと一緒に居られるような気がする。
好きな人ができるって、すごく特別だ。
うまくできないことが多くて、不安にさせたりしてしまっている。
できるかどうかは別として、100パーセント受け入れたいと思う。
善悪を別にして、必ず味方で居たいと思う。
大人の男らしく少し角ばった頬骨に対して、パーマが残った前髪が可愛らしいので、前髪にときどき触れてしまう。
これが最後の恋になればいいのに、と、引かれそうなくらい重たいことを考えている。
ふたりのけしき
「誰かと過ごす部屋って、全部タイプが違っていて、全部好きだったな。」
と紗希子が言うので、弥生は今までの彼氏と過ごした部屋を思い出していた。
今付き合っている祐介の部屋が、一番好きだ、と思いながらアイスロイヤルミルクティーを一口吸った。
氷がキュウッと音を立てて少し崩れ、ストローから戻った液体でまたカランと小さな音を立てた。
祐介の部屋には、たくさんの物がある。
弥生はいつも、自分は物のない部屋が好きだと思って生きていた。
多分それは祐介の前に付き合っていたカケル君の部屋がスッキリと物が少なかったことや、その前に付き合っていた峰田の部屋が散らかり過ぎていたことも関係している。
でも初めて祐介の部屋へ入った瞬間から、そんな気持ちは全く消えてしまった。
祐介の中にいるかのような部屋は、いつでも優しく、オープンに弥生を迎えてくれる。
祐介の部屋の、祐介の好きなものに囲まれている感じが、弥生は一番好きだ。
寝つきが悪いために間接照明がたくさんあるのも、弥生は楽しく感じていた。
目を閉じれば、ギターと、アンプ型のスピーカーと、祐介がプログラミングの仕事で使っている大きなモニターと、本棚に並んだたくさんの本が見えてくる。
オレンジの光が祐介の少し浮き出た頬骨を照らすので、弥生は彼の頰にキスをするのがお気に入りだ。
祝福のキス、と心の中でコッソリと呼んでいる。
「毎回、今付き合っている人の部屋が一番好きなの。それで毎回、今付き合っている人が一番好き。私ってすごく健全だよね。」
紗希子はよく、健全、という言葉を使う。
きっと安心するんだろう。紗希子が「弥生が付き合った中で一番健全だったのはカケル君だ。」と言っていたことを思い出す。
ロイヤルミルクティーに、溶けた氷の水の幕ができてきた。美味しいうちに飲もうと、2、3口ゴクリと飲むと、カケル君の部屋はすごく静かだった、というのを思い出した。
カケル君の部屋は、見えるところには物がほとんどなくて、いつも片付いていた。
カラーBOXが1つ分、まるまる空間が空いていて、ここ、自由に使っていいから、私物持ってきておいて構わないよ、と言われたとき、弥生ははっきりと嬉しかった。
真っ白な広い壁が一面空いていて、そこにホームプロジェクターで映画を映した。
カケル君が好きな映画と、弥生が好きな映画は全く違うので、どちらかがそんなに好きではない映画を観ることばかりだった。
なるほど確かに、紗希子は健全だなと思う。
弥生はそれほど、カケル君のことを好きではなかった。
カケル君に関しては、付き合い始めのお花畑のような期間もなかった。
なんとなく、キスをして、なんとなく、付き合いますかと言い合った。
なんとなく、好きになれそうな気がしてなんとなく一緒にいたが、なんとなく、会話が噛み合わなくなって、なんとなく、他人行儀なまんまで、別れだけは、きっちり、きっぱりと2人で決めた。
「一度だけ、普段シャワーしか使わない彼氏のバスタブを思いっきりこすって洗って、お湯をためたことがある。」
紗希子が自分のアイスコーヒーを飲むのを見て、弥生もロイヤルミルクティーをひとくち、吸った。
少し薄くなった、喉に引っかからない味に変わっていた。
紗希子はアルコールを飲んだみたいに、ふぅぅ、と長い息をついてから、
「そしたらなんか、別れようって思っちゃったの。全然嫌いじゃなかったし、バスタブが汚くて引いたわけでもなく、自分が浸かりたいからお掃除しただけで、させられたとかってわけでもないから、そういうのは関係なく。綺麗になった、よし、別れよう、みたいな。」
と言った。
「一生片付かない場所と、すぐに綺麗さっぱりする場所と、置いてかれているように見えたのは、どっちかってことなんだけど。」
弥生には、紗希子の言っていることが、少しはわかるような気がした。
でも弥生の答えは決まっている。
そんなのは両方、置いてかれているのだ。
一生片付かないというのは、まさに峰田の部屋だった。
峰田と弥生は燃え上がるように一瞬で恋に落ちて、その火が段々と小火になってゆき、二人は別れたのだったが、峰田の部屋は一生片付かない、これからも、と弥生は思う。
峰田は実家に暮らしていて、2階の部屋の壁紙には一面の星が描かれていた。天窓があって、天井にも星が散らばり、電気を消すと安っぽく光った。
壁じゅうに貼られたポストカードやポスターと、貼れる場所には全部貼ったというステッカーと、置ける場所に置き切らないフィギュア達。
いつでも電飾が絡められたベッドでは、朝から晩まで毎日小さな電球たちがか細い光を発していた。
いつか光らなくなっても、光らなくなったままでそこに置かれ続けるんだろう。
祐介の好きが詰まった部屋と、峰田のカオスとも言える部屋はまるで違っていた。
峰田の部屋は一生片付かない。
そして峰田もずっとそこにいる。
別れたあとで、峰田とあの部屋は、何か現実離れしていると思ったことがあった。たくさんの物が溢れかえるあの部屋で、峰田は絶対にひとりぼっちだった。ずっとあの場所に、置いていかれて。
弥生はそれを紗希子に話したことはない。
紗希子は、自分がひと言話す毎に、弥生も自分自身の知っている部屋を思い返しているのだとわかっている。
弥生はまったく、健全だ。
実を言うと紗希子は、中学生の頃から一目置いている。
弥生はなんとなく合わせることもせず、考えずに発言するということもなく、正しい言葉を使って正確に伝えようとする。
「今、ビックリしたんだけど。」
と弥生が口を開いた。
飲まずにロイヤルミルクティーの氷をストローでつついている。
代わりみたいに紗希子がアイスコーヒーを一口飲んだ。なにが、と言ってから。
「ヨシノリと付き合っていた時、3つの部屋で過ごしてたんだなって。」
ヨシノリ、と聞いて、紗希子は一瞬誰だったかと思ったが、すぐに弥生が付き合った男性の中で1番不健全で、不誠実だった男だと思い出した。
「私が大学時代に住んでた部屋と、東京に出た時に住んでいた部屋と、その次の、上井草の部屋。」
弥生の部屋は紗希子と比べて随分ある。
紗希子には実家の部屋と、今住んでいる部屋の2部屋しかない。
弥生は実家を出てからもう何度引っ越したのか正確には紗希子も思い出せない。
「どの部屋が一番、ヨシノリさんとの記憶が濃いの。」
弥生は困ったように笑うと、
「一番短かったけど、大学時代の部屋だ。」
と言った。
弥生がお花畑になっていた頃だ、とすぐにわかった。
幸せな記憶が一番濃く残っているところが、弥生が健全であることを表している、と紗希子は思う。
弥生の部屋で過ごした唯一の男性はヨシノリであるし、5年間と、2人の時間は長かった。
紗希子はヨシノリは不健全だと何度も弥生に訴えたい気持ちを押し込めて過ごしていた。
健全であることは伝えて良いが、健全でないということは、伝えてはならないように、紗希子は思っている。
「それぞれの人と、それぞれの匂いと、それぞれの部屋と。なんかさ、いいよね。」
今度は紗希子が言った。
「そうだよね。なんか、いい。」
と弥生は答えながら、良則との3部屋の記憶よりも、意外な記憶が心に浮かんできて驚いていた。
初めて付き合った春樹さんの部屋の記憶は、一度も彼が足を踏み入れた事のない、弥生の実家の畳だったからだ。
思い出すのは、ミニスカートを履いた弥生の今よりも白くて細い膝と、その近くにだらんと伸ばした手。そこに握られている薄ピンク色の携帯電話。日に焼けている畳。
春樹さんは社会人で、弥生は高校二年生だった。
春樹さんは会社の寮に住んでいて、弥生が彼の部屋に入ることはできなかった。
思い出すことといえば、実家の畳の上で、春樹さんからのメールを待っている風景ばかりだった。
春樹さんの車の匂いも鼻をかすめたが、実家の黄色い畳が、2人の間の最も重大なキーアイテムであるかのように覆い隠してしまう。
頻繁に会ってくれなかったわけでもない。
アルバイトをしていた弥生が特別暇だったわけでもない。
いつも行く、決まったラブホテルの部屋もあった。
それでも、弥生にとって春樹さんは、圧倒的に実家の古い畳なのだと思うと、幼かったのだと、認めざるを得なくなった。
「2人の景色を決めるのって、なんなんだろうね。」
と弥生が言った。
2人の景色という言葉が紗希子は気に入った。
弥生と紗希子の景色は、紗希子の家の前。夕方から夜にかけて、自転車にまたがった、中学の体操服姿の2人だ。
あの日からずっと、弥生と紗希子は間が空くことがあっても、話し続けている。
カフェで出てくる飲み物を、一気に飲み干さなくなったのは、大人になったからだ。
付き合うとか、別れるとか、そういうところとは別の場所に、お互いが居てくれることを、感謝できる2人は仲が良い。
「祐介さんも、健全そうでよかった。」
と紗希子が言うと、弥生は照れ臭そうに笑った。
愛の夢 #3
愛の夢 #3
写真を撮る習慣がなかったから、別れてしまうと秋生は本当に全く姿の見えない人になってしまった。
笑っていた顔も、少し神経質に私を心配していた眉間のシワも、なんだかもううっすらとして、2年間一緒にいたのにひと月でも随分と視覚的な記憶はぼやけてしまうものなのだなと痛感する。
ベッドではなく硬いフローリングの麻のラグに寝転ぶと、尾てい骨がジンワリと痛んだ。
土曜日は昨日で、今日は日曜日で、ずっとカーテンを閉めているから何時くらいなのかは全くわからない。
誰かが助けてくれるまで、休みの日は、ずっとこうして不貞腐れ続けるのかもしれない。
薄暗い部屋の中でスマートフォンの画面が明るく光り「中原秋生」と表示される。
すぐにでもその電話に出てしまいたい気持ちを押し込め、画面を裏側にひっくり返す。
これはほとんど心中だ。命を伴わないだけで。こういう小さな心中を、この一月で何度も繰り返している。
今でもずっと、秋生が好きだ。
緑が濃い花屋の前で待ち合わせて出会った時、初めてあなたの部屋に入った時、互いへの想いを口に出さずとも伝わるように愛し合った時、全て幸せだったものが嘘だったとわかった時、それでも秋生を嫌いになれなかった時、秋生を怒れなかった時。
いつも私の心を占めていたのはあなたが好きという気持ちだけだった。
今度こそ、私は最後の恋人と出会ったのだと思っていた。
だから、大事にしていた。
過去の恋人達との反省を生かした。
あなたに幸せでいてほしいと願っていた。
私だって生きている最中なのに、ほとんど祈り続ける天使みたいな感じだった。
「春子と居て、ここが嫌だとか思ったことは、1度もなかった」
と秋生は言った。私は間違えてなかった。間違えてなかったってなんだろう。
何かを間違えないことよりも、私には秋生に愛されることの方が重要だった。
秋生にとって心に響くことがない、水槽の中の水草みたいな存在だったんじゃないか。
付き合う直前の温度がピークでその後にぬるま湯くらいの心地になり、ずっとそのままだったんだ。少なくとも、秋生の中では。
「まだくるの?電話。」
ハンバーグについてきたパンを無意味に細かくちぎりながら、うん、と頷くと、夏希ちゃんはグリルチキンを切っていたナイフを私に向かって突き出して、
「一回出るか、出ないなら着拒しな。」
と言った。
夏希ちゃんの声は大きくなくともよく通るので、なんとなく周りを見渡すと、テーブルにコーヒーだけが置いてあるおじいさんと目があった。
ファミレスに行きたい、と急に呼び出したのは夏希ちゃんだったのに、話題はもっぱら私と秋生のことだった。
「電話出たい。」
頭で考えるのと同時かそれより先くらいに口からポロっと現れた私の本音は、夏希ちゃんの口元に運ばれ続けるチキンと同じくらい軽やかなリズムだった。
「なら、出ればいいじゃん。」
私なら出るし、別れたくなければお互い納得できるまで話し合うし、まあ、浮気されて付き合い続けるのはおすすめできないけどね、と一気に言ってから、夏希ちゃんは空いたグラスを持ってドリンクバーに席を立った。
ハンバーグに添えてあるインゲンを見る。
プレートで出てくるお肉料理の付け合わせにおいて、みんな無意識にうっすらとしたランク付けをしているはずだ。
ポテトだったら嬉しい。人参だったらハズレって感じ。コーンは毎度食べづらいなと思うけど悪くない。でもインゲンって。なんともない。なんの印象もない。
「あんたも私の仲間じゃん。」
と言いながらフォークでインゲンをつついていたら、
「インゲンはインゲン、あんたはあんた。」
と言いながら夏希ちゃんが帰ってきた。
「何が仲間なのよ。あんた緑でもないし、煮たり焼いたりされないでしょ。」
「もっと、本質的な、根本的な、深い話。」
ふーん、と言いながら紫色のソーダを飲む夏希ちゃんは、白い肌に水色のストライプのブラウスが似合っていて、夜中のファミリーレストランというよりは、ひとりで北青山にできたばかりのオーガニックカフェにでもいるかのように見える。
「夏希ちゃんは、やっぱりお肉かな。」
私はまだ半分ほど残っている冷えかけたハンバーグを切りながら言った。
その話、続けるのね、と夏希ちゃんが呆れたみたいに言っているのが聞こえる。
夏希ちゃんは絶対に主人公な感じだし、私みたいな害も及ぼさないけどわかりやすい魅力もない水草やインゲンとは明らかに違う。
だから、私もずっと一緒に居られるんだろう。
「わたしもっと、ジャガイモとか、トマトとか…あとあれかな、チーズとかがいいんだけど。」
夏希ちゃんはドリンクの中を覗いて、うつむいたまま言った。
チリンチリン、というファミレスの扉の音と共に、先ほどのコーヒーを飲んでいたおじいさんが帰っていくのが見えた。
「なんで。なんか意外。」
夏希ちゃんはストローを氷に向かって刺したり、無意味に回したりしながら、
「だって春子が言ってたインゲンは私の仲間って、そういう意味でしょ?ついてたら、なんか嬉しいかどうか、重要な存在かどうか。」
と言った。
「付け合わせがポテトだったらめっちゃ嬉しいし、トマトはトマトソースとか、ないと困るし。チーズなんかさ、主役級じゃない?わかりやすく私どうよ!ってお肉でいるのはなんか嫌。でも実は重要で、ないと困っちゃうの。どう?」
夏希ちゃんはイタズラ好きな子供のような笑い顔で、私が、「確かに、いいね。」と言うのをすっかり分かっている。彼女の賢さの10分の1でもわたしにあったなら、秋生とももっと違う結末があったのか。
ファミリーレストランの安っぽいオレンジのソファーすら、なんだかお洒落なコテージのバイキングくらいには格上げしてしまいそうな夏希ちゃんは、確かにそれくらい重要で、でも重要であることを過剰にアピールせずに相手を理解して安心させてくれる。
「その中なら夏希ちゃんはトマトかなあ。なんか小さくて甘くて可愛いさあ、フルーツみたいなトマトあるじゃん。あれにしようよ。」
わたしがそう言ったら、夏希ちゃんも笑って、いいよ、それにしよう。と言ってくれた。
愛の夢 #2
愛の夢#2
世界が終わる深夜に、牛丼屋へ行った。
朝の4時に、誰も彼も、犬も猫も、貧しいも富めるも、木々も花々も、傷みも喜びも、海も山も、空も大地も、何もかもが一切合切、なくなるらしかった。
今までも様々な文明の予言や地震予測などがなされ、すべて嘘だったとわかってきた。
けれど今回は予言や予測ではなく、科学的に証明され、全世界に偉い人たちがきちんと発表し、ゴールデンウィークもお盆休みもなかった私の会社も、正式に長い休暇をくれた。
本当に夜明けごろ、世界は終わるらしかった。
近くには地味な女子大がある。その周りには多分その女子大生たちがアルバイトをしているスナックが点々としている。
安いアパートばかりのこの辺りでは、コインランドリーと、この牛丼屋以外、灯りが見えない。
この牛丼屋の店長はとてもこんな最後の日まで真面目にお店を開くタイプに思えなかったから、ダメ元で歩いてここまで来たけれど、あかあかと光る看板が見えた時、牛丼屋のこういうところが私の心を温めていたと思い出した。
「いらっしゃいませ。」
出迎えたのは店長ではなく、若いアルバイトの男性だった。
あの人は店内にいなかった。
店員が持ってきた水を眺めて、1時間が経った。
BGMがない牛丼屋は、夜の学校みたいな雰囲気がある。
静かで、少し怖かった。
明るい木の枠と、ピンクベージュの生地でできた椅子。白いテーブル。
看板はあかあかと光っていたけれど、室内は小さな真っ白な電球1個しか灯りがないから薄暗い。
あの人はこない。
店員がボーッと北側の窓を眺め続けるので、私もボーッと同じ方向の窓から空を眺めていた。
「何も頼まないんですね。」
だからずっと同じ方向を見てると思っていた店員が、私を見て話しかけてきた時、椅子と机をガタガタと鳴らして驚いてしまった。
最後の日だから、何も頼まずに居ることが許される気がしていた。
まあそうか、何か頼まなくちゃいけないか、と思いメニュー表を広げようとすると、
「ただですよ。世界は終わるし、店員は僕だけだから。食べればいいのに。」
と店員が言った。
なんだ、そういうことか、とメニューを閉じると、店員はカウンターから出てきて私と少し離れた客席に座り、また北側の窓を眺め始めた。
あの人はこない。
水のカップには結露が流れ、置いてある場所には水たまりが出来上がった。
なんとなく、最初に世界が出来たときは、こんな風に始まったんじゃないかと思った。
半分程水を飲み干して、机に突っ伏した。
「少し、寝ます。」
私が急に喋ったのに、店員は驚かず、
「いい夢を。」
と言った。なぜ店員に話しかけたかは自分でも分からなかった。
あの人はこない。
恐ろしく眩しい光の渦を感じて目を覚ました。
店員は同じ席に座って、まだ北側の窓を見ているようだった。
北側から大きくて目を開いていられないほど明るい光が迫っていた。
時計を見ると午前4時を指しており、あ、終わりだ、と思った。
あの人はいない。
「2人で、コンビニの準夜勤をしていたの。」
店員は、私がいつ突然話し出しても全く動揺しない。ゆっくりとこちらを振り返った。
逆光で彼がどんな表情をしているのか全く分からない。
「だから、その後からデートすると、ここか、ラーメン屋しかなかったの。」
店員が何かを言った気がするけれど、よく聞こえなかった。
耳がピーンとして、宇宙はこんな感じだろうかと思える程音が感じられない。
もしかしたら私が言っていることも、店員には聞こえていないのかもしれなかった。
店員は立ち上がって、近づいてくる。
「色気がないけれど、たのしかったの。」
あの人はきっともういない。
「待っていたんですね。」
目の前に来た店員の口がそう動いたように感じた。
「痛かったり、熱かったり、苦しいかな。」
もう光に包まれて何も見えない中で、私は店員と互いの両手を握り合い、本当に世界は終わるんだ、あなたにもう一度会えないまま、と思った。
「大丈夫。」
店員の声が聞こえた。
思ったよりもがっしりとした手も、全く知らないもの同士なのだと思ったら頼りなく感じた。
「大丈夫。」
もう一度聞こえて、私たちはフワフワと浮き上がって行く。
愛の夢 #1
愛の夢#01
「ああこの夕方の匂いは君と過ごした夏と全く同じじゃないか。」
口に出してみたら、何か劇的な、ロマンチックな現象が起こらないかと期待したけれど、無駄だった。
網戸にして、タイマーをセットしていた扇風機はとっくに動きを止めたようだった。
ものすごい汗と息苦しさで目覚めると、畳中を真っ赤な夕日が照らしていた。
僕のすね毛の生えた脚は汚いし、足元に転がっている文庫本は、何度か蹴ってしまったんだろう。変な開き方をして、ページが折れてしまっている。
寝転んだまま腰をくの字に曲げて、文庫本を手に取ろうとした時、背中側には缶ビールがあったのではないかと思い出して、一気に身体が緊張した。
首だけを曲げて確認すると、缶ビールは倒れずにそこにじっとりと立っている。
彼が佇む場所は、結露でビッショリとしめっており、「畳がダメになる!」という祖父の声が聞こえてきそうだと思った。
足元の文庫本はそうはいかなかったが、缶ビールの無事の奇跡を喜んでそうっと仰向けになり、よくこんな感じで君とキスをしたな、と思い出した。
うっとりとするようなキスをしていても、僕たちは脇にあるビールやらワインやら、時には縁日でふざけて買ったラムネやらを、こぼしたことは一度もなかった。
君と過ごした部屋はフローリングで、天井は白く、僕たちはベッドで手を繋いで眠っていた。
扇風機ではなくてエアコンを使っていたし、君がよく洗濯してくれた冷感素材のタオルケットは清潔だった。
西側に大きな窓があるのを、君はこの部屋の一等気に入っているところだと言っていた。
同じなのはこの部屋の中の真っ赤な夕日だけだというのに、日焼けて真っ黄色な畳も、木目のある天井も、僕のこのけむくじゃらの脚でさえ、懐かしく美しい君との記憶の一部のように感じられるのは何故だろう。
君が僕の心に住み続けて、もう6回目の夏だ。
一緒に過ごした夏は5回しかなかった。
君と過ごした回数を季節で数えるとなんと少ないことだろう。
人生において僕が5回しかしていないことなんてほとんどないのではないか。
しかも手を繋いで過ごした夏は4回しかなかった。
人生において僕が4回しか経験していないことといえば、誰かを泣かせたことくらいだ。
1回は父親、3回は君だ。
僕の人生の4分の1は父親で、4分の3は君だったということだ。
君を僕の心から追い出せだとか、新しい女を住まわせるべきだという愚か者もいるが、どうやら僕のことを思って言っているらしいので、最近は反論もせず、ダラダラと頷くようにしている。
鼻いっぱいで息を吸う。
ああやっぱりこの夕方の匂いは君と過ごした夏と同じ匂いだ。
君が好きだった輪切りの入ったレモンのシャーベットを思い出した。
タンスからどうでもいいジーンズを引っ張り出し、寝汗でびっしょりだったTシャツは一応新しいものに変えた。
ガチャガチャと音を立てて下駄箱の上のカギを取り、僕は尻ポケットの財布を確認しながら、コンビニにアイスを買いに行く。