愛の夢 #4
「俺はパクチーがいいかな。」
と秋生が言ったので、春子は少し驚いた。
「どうして?パクチーなんて、嫌いって言う人が多いのに。」
パクチーのことは、春子も嫌いだ。
秋生も食べられないじゃないか、と今の議論と全く関係ないことがわかっているのに、小学生のような反論を心の中で呟いてしまう。
「好きな人にだけ、好かれればいいんだ。だから俺は、付け合わせ人気ランキング最下位でも、パクチーでいいんだ。」
ああ。と春子は思う。こういうところが好きだった、とお腹の底がじんわりと熱くなった。
秋生がそう言うと、春子にはそれが一番いいように思えてならなかった。それが正解だと思えてならなかった。
同時にこういう秋生の考え方が、春子には怖かったのだ、ということも思い出して、本当に電話を取ってみてよかったと初めて思った。
秋生と春子は、別れてよかったのだ。
付き合っている間秋生は、春子に不安ができたとき、それを理解し、謝ったり頭を撫でたり、優しくキスをしたりしたけれど、解決したことは一度もなかった。
別れを切り出したのは春子の方だった。けれど、
「俺のこういうところが春子を傷つけるなら、たしかに別れた方がいいと思うんだ。」
という秋生の言葉が、春子の中でしんしんと積もる。
切り出したのは春子だったのに、振られたのも、春子だったように思っている。
一度しか言われていないはずの言葉が、何度も心で繰り返したせいで、二度と除去し切れないほど深く積もってしまった。
「そっか、パクチーか。たしかに、秋生っぽいよ。」
電話口で、返事の代わりみたいに秋生が鼻をすすった。夏風邪かな、こじらせないでね、よく寝てね、と心の中で声をかける。
ひとつきの間、ほとんど毎日取らなかった電話を取って、開口一番、
「自分の存在を食べ物に例えると、なんだと思う?」
と言った春子に、付き合っていた頃と全く変わらない間で、付き合っていた頃と全くおんなじ話し方で、すぐに答えてくれた秋生は優しいと思う。
モテるよなあ、この人。と思いながら、通話をスピーカーに切り替えてスマートフォンを机の上に置き、春子はマスカラを塗った。
出かける予定はないけれど、春子は生まれて初めて、マスカラを塗っている。
「私これからは、マスカラを塗って、ビューラーを使おうと思うの。」
鏡に映る、間抜けな顔の自分を見ながら春子がそう言うと、なんとなく、秋生の息遣いが、電話の向こう側で変わったような気がした。
「俺、浮気なんてしてなかったんだ。」
春子の手が、止まった。
「それだけ伝えようと思ってたんだ。」
机の上のスマートフォンを見る。そこに秋生がうつっているみたいに。
「じゃあ。」
と言う声が聞こえて、通話が切れた。
「待って。」
春子が言ってももう遅くて、通話は切れたあとだった。
「待って、待って、待って。」
コームを戻さないままマスカラを机に放ってスマートフォンを手に取り、秋生にかけ直す。
プルルルル、プルルルル、
マスカラのなんの成分で出来ているのか1つもわからない液体が、机の上に小さな汚れを作っていく。
プルルルル、プルルルル、
春子はこれからは上を向いたまつげに、自分も上を向かせてもらおうと思っている。
プルルルル、プルルルル、
知っていた、本当は知っていた。
秋生が多分浮気なんかしていないことも。
けれどそれを信じてどっしり構えるほどの度量が春子にはなかったことも。
どちらも悪くないんだということも。
「もしもし。」
あ、出てくれるんだ、と春子は思った。
何を伝えたくて電話をかけたのかなんてわからなかった。
「私のこと、食べ物に例えるとなんだと思う?」
こんな雑談に、意味はないのに。