本棚

小説 / エッセイ etc. twitter: @_sakurai_m

愛の夢 #3

愛の夢 #3

 

写真を撮る習慣がなかったから、別れてしまうと秋生は本当に全く姿の見えない人になってしまった。

笑っていた顔も、少し神経質に私を心配していた眉間のシワも、なんだかもううっすらとして、2年間一緒にいたのにひと月でも随分と視覚的な記憶はぼやけてしまうものなのだなと痛感する。

ベッドではなく硬いフローリングの麻のラグに寝転ぶと、尾てい骨がジンワリと痛んだ。

土曜日は昨日で、今日は日曜日で、ずっとカーテンを閉めているから何時くらいなのかは全くわからない。

誰かが助けてくれるまで、休みの日は、ずっとこうして不貞腐れ続けるのかもしれない。

薄暗い部屋の中でスマートフォンの画面が明るく光り「中原秋生」と表示される。

すぐにでもその電話に出てしまいたい気持ちを押し込め、画面を裏側にひっくり返す。

これはほとんど心中だ。命を伴わないだけで。こういう小さな心中を、この一月で何度も繰り返している。

今でもずっと、秋生が好きだ。

緑が濃い花屋の前で待ち合わせて出会った時、初めてあなたの部屋に入った時、互いへの想いを口に出さずとも伝わるように愛し合った時、全て幸せだったものが嘘だったとわかった時、それでも秋生を嫌いになれなかった時、秋生を怒れなかった時。

いつも私の心を占めていたのはあなたが好きという気持ちだけだった。

今度こそ、私は最後の恋人と出会ったのだと思っていた。

だから、大事にしていた。

過去の恋人達との反省を生かした。

あなたに幸せでいてほしいと願っていた。

私だって生きている最中なのに、ほとんど祈り続ける天使みたいな感じだった。

「春子と居て、ここが嫌だとか思ったことは、1度もなかった」

と秋生は言った。私は間違えてなかった。間違えてなかったってなんだろう。

何かを間違えないことよりも、私には秋生に愛されることの方が重要だった。

秋生にとって心に響くことがない、水槽の中の水草みたいな存在だったんじゃないか。

付き合う直前の温度がピークでその後にぬるま湯くらいの心地になり、ずっとそのままだったんだ。少なくとも、秋生の中では。

 

「まだくるの?電話。」

ハンバーグについてきたパンを無意味に細かくちぎりながら、うん、と頷くと、夏希ちゃんはグリルチキンを切っていたナイフを私に向かって突き出して、

「一回出るか、出ないなら着拒しな。」

と言った。

夏希ちゃんの声は大きくなくともよく通るので、なんとなく周りを見渡すと、テーブルにコーヒーだけが置いてあるおじいさんと目があった。

ファミレスに行きたい、と急に呼び出したのは夏希ちゃんだったのに、話題はもっぱら私と秋生のことだった。

「電話出たい。」

頭で考えるのと同時かそれより先くらいに口からポロっと現れた私の本音は、夏希ちゃんの口元に運ばれ続けるチキンと同じくらい軽やかなリズムだった。

「なら、出ればいいじゃん。」

私なら出るし、別れたくなければお互い納得できるまで話し合うし、まあ、浮気されて付き合い続けるのはおすすめできないけどね、と一気に言ってから、夏希ちゃんは空いたグラスを持ってドリンクバーに席を立った。

 

ハンバーグに添えてあるインゲンを見る。

プレートで出てくるお肉料理の付け合わせにおいて、みんな無意識にうっすらとしたランク付けをしているはずだ。

ポテトだったら嬉しい。人参だったらハズレって感じ。コーンは毎度食べづらいなと思うけど悪くない。でもインゲンって。なんともない。なんの印象もない。

「あんたも私の仲間じゃん。」

と言いながらフォークでインゲンをつついていたら、

「インゲンはインゲン、あんたはあんた。」

と言いながら夏希ちゃんが帰ってきた。

「何が仲間なのよ。あんた緑でもないし、煮たり焼いたりされないでしょ。」

「もっと、本質的な、根本的な、深い話。」

ふーん、と言いながら紫色のソーダを飲む夏希ちゃんは、白い肌に水色のストライプのブラウスが似合っていて、夜中のファミリーレストランというよりは、ひとりで北青山にできたばかりのオーガニックカフェにでもいるかのように見える。

「夏希ちゃんは、やっぱりお肉かな。」

私はまだ半分ほど残っている冷えかけたハンバーグを切りながら言った。

その話、続けるのね、と夏希ちゃんが呆れたみたいに言っているのが聞こえる。

夏希ちゃんは絶対に主人公な感じだし、私みたいな害も及ぼさないけどわかりやすい魅力もない水草やインゲンとは明らかに違う。

だから、私もずっと一緒に居られるんだろう。

「わたしもっと、ジャガイモとか、トマトとか…あとあれかな、チーズとかがいいんだけど。」

夏希ちゃんはドリンクの中を覗いて、うつむいたまま言った。

チリンチリン、というファミレスの扉の音と共に、先ほどのコーヒーを飲んでいたおじいさんが帰っていくのが見えた。

「なんで。なんか意外。」

夏希ちゃんはストローを氷に向かって刺したり、無意味に回したりしながら、

「だって春子が言ってたインゲンは私の仲間って、そういう意味でしょ?ついてたら、なんか嬉しいかどうか、重要な存在かどうか。」

と言った。

「付け合わせがポテトだったらめっちゃ嬉しいし、トマトはトマトソースとか、ないと困るし。チーズなんかさ、主役級じゃない?わかりやすく私どうよ!ってお肉でいるのはなんか嫌。でも実は重要で、ないと困っちゃうの。どう?」

夏希ちゃんはイタズラ好きな子供のような笑い顔で、私が、「確かに、いいね。」と言うのをすっかり分かっている。彼女の賢さの10分の1でもわたしにあったなら、秋生とももっと違う結末があったのか。

ファミリーレストランの安っぽいオレンジのソファーすら、なんだかお洒落なコテージのバイキングくらいには格上げしてしまいそうな夏希ちゃんは、確かにそれくらい重要で、でも重要であることを過剰にアピールせずに相手を理解して安心させてくれる。

「その中なら夏希ちゃんはトマトかなあ。なんか小さくて甘くて可愛いさあ、フルーツみたいなトマトあるじゃん。あれにしようよ。」

わたしがそう言ったら、夏希ちゃんも笑って、いいよ、それにしよう。と言ってくれた。