ふたりのけしき
「誰かと過ごす部屋って、全部タイプが違っていて、全部好きだったな。」
と紗希子が言うので、弥生は今までの彼氏と過ごした部屋を思い出していた。
今付き合っている祐介の部屋が、一番好きだ、と思いながらアイスロイヤルミルクティーを一口吸った。
氷がキュウッと音を立てて少し崩れ、ストローから戻った液体でまたカランと小さな音を立てた。
祐介の部屋には、たくさんの物がある。
弥生はいつも、自分は物のない部屋が好きだと思って生きていた。
多分それは祐介の前に付き合っていたカケル君の部屋がスッキリと物が少なかったことや、その前に付き合っていた峰田の部屋が散らかり過ぎていたことも関係している。
でも初めて祐介の部屋へ入った瞬間から、そんな気持ちは全く消えてしまった。
祐介の中にいるかのような部屋は、いつでも優しく、オープンに弥生を迎えてくれる。
祐介の部屋の、祐介の好きなものに囲まれている感じが、弥生は一番好きだ。
寝つきが悪いために間接照明がたくさんあるのも、弥生は楽しく感じていた。
目を閉じれば、ギターと、アンプ型のスピーカーと、祐介がプログラミングの仕事で使っている大きなモニターと、本棚に並んだたくさんの本が見えてくる。
オレンジの光が祐介の少し浮き出た頬骨を照らすので、弥生は彼の頰にキスをするのがお気に入りだ。
祝福のキス、と心の中でコッソリと呼んでいる。
「毎回、今付き合っている人の部屋が一番好きなの。それで毎回、今付き合っている人が一番好き。私ってすごく健全だよね。」
紗希子はよく、健全、という言葉を使う。
きっと安心するんだろう。紗希子が「弥生が付き合った中で一番健全だったのはカケル君だ。」と言っていたことを思い出す。
ロイヤルミルクティーに、溶けた氷の水の幕ができてきた。美味しいうちに飲もうと、2、3口ゴクリと飲むと、カケル君の部屋はすごく静かだった、というのを思い出した。
カケル君の部屋は、見えるところには物がほとんどなくて、いつも片付いていた。
カラーBOXが1つ分、まるまる空間が空いていて、ここ、自由に使っていいから、私物持ってきておいて構わないよ、と言われたとき、弥生ははっきりと嬉しかった。
真っ白な広い壁が一面空いていて、そこにホームプロジェクターで映画を映した。
カケル君が好きな映画と、弥生が好きな映画は全く違うので、どちらかがそんなに好きではない映画を観ることばかりだった。
なるほど確かに、紗希子は健全だなと思う。
弥生はそれほど、カケル君のことを好きではなかった。
カケル君に関しては、付き合い始めのお花畑のような期間もなかった。
なんとなく、キスをして、なんとなく、付き合いますかと言い合った。
なんとなく、好きになれそうな気がしてなんとなく一緒にいたが、なんとなく、会話が噛み合わなくなって、なんとなく、他人行儀なまんまで、別れだけは、きっちり、きっぱりと2人で決めた。
「一度だけ、普段シャワーしか使わない彼氏のバスタブを思いっきりこすって洗って、お湯をためたことがある。」
紗希子が自分のアイスコーヒーを飲むのを見て、弥生もロイヤルミルクティーをひとくち、吸った。
少し薄くなった、喉に引っかからない味に変わっていた。
紗希子はアルコールを飲んだみたいに、ふぅぅ、と長い息をついてから、
「そしたらなんか、別れようって思っちゃったの。全然嫌いじゃなかったし、バスタブが汚くて引いたわけでもなく、自分が浸かりたいからお掃除しただけで、させられたとかってわけでもないから、そういうのは関係なく。綺麗になった、よし、別れよう、みたいな。」
と言った。
「一生片付かない場所と、すぐに綺麗さっぱりする場所と、置いてかれているように見えたのは、どっちかってことなんだけど。」
弥生には、紗希子の言っていることが、少しはわかるような気がした。
でも弥生の答えは決まっている。
そんなのは両方、置いてかれているのだ。
一生片付かないというのは、まさに峰田の部屋だった。
峰田と弥生は燃え上がるように一瞬で恋に落ちて、その火が段々と小火になってゆき、二人は別れたのだったが、峰田の部屋は一生片付かない、これからも、と弥生は思う。
峰田は実家に暮らしていて、2階の部屋の壁紙には一面の星が描かれていた。天窓があって、天井にも星が散らばり、電気を消すと安っぽく光った。
壁じゅうに貼られたポストカードやポスターと、貼れる場所には全部貼ったというステッカーと、置ける場所に置き切らないフィギュア達。
いつでも電飾が絡められたベッドでは、朝から晩まで毎日小さな電球たちがか細い光を発していた。
いつか光らなくなっても、光らなくなったままでそこに置かれ続けるんだろう。
祐介の好きが詰まった部屋と、峰田のカオスとも言える部屋はまるで違っていた。
峰田の部屋は一生片付かない。
そして峰田もずっとそこにいる。
別れたあとで、峰田とあの部屋は、何か現実離れしていると思ったことがあった。たくさんの物が溢れかえるあの部屋で、峰田は絶対にひとりぼっちだった。ずっとあの場所に、置いていかれて。
弥生はそれを紗希子に話したことはない。
紗希子は、自分がひと言話す毎に、弥生も自分自身の知っている部屋を思い返しているのだとわかっている。
弥生はまったく、健全だ。
実を言うと紗希子は、中学生の頃から一目置いている。
弥生はなんとなく合わせることもせず、考えずに発言するということもなく、正しい言葉を使って正確に伝えようとする。
「今、ビックリしたんだけど。」
と弥生が口を開いた。
飲まずにロイヤルミルクティーの氷をストローでつついている。
代わりみたいに紗希子がアイスコーヒーを一口飲んだ。なにが、と言ってから。
「ヨシノリと付き合っていた時、3つの部屋で過ごしてたんだなって。」
ヨシノリ、と聞いて、紗希子は一瞬誰だったかと思ったが、すぐに弥生が付き合った男性の中で1番不健全で、不誠実だった男だと思い出した。
「私が大学時代に住んでた部屋と、東京に出た時に住んでいた部屋と、その次の、上井草の部屋。」
弥生の部屋は紗希子と比べて随分ある。
紗希子には実家の部屋と、今住んでいる部屋の2部屋しかない。
弥生は実家を出てからもう何度引っ越したのか正確には紗希子も思い出せない。
「どの部屋が一番、ヨシノリさんとの記憶が濃いの。」
弥生は困ったように笑うと、
「一番短かったけど、大学時代の部屋だ。」
と言った。
弥生がお花畑になっていた頃だ、とすぐにわかった。
幸せな記憶が一番濃く残っているところが、弥生が健全であることを表している、と紗希子は思う。
弥生の部屋で過ごした唯一の男性はヨシノリであるし、5年間と、2人の時間は長かった。
紗希子はヨシノリは不健全だと何度も弥生に訴えたい気持ちを押し込めて過ごしていた。
健全であることは伝えて良いが、健全でないということは、伝えてはならないように、紗希子は思っている。
「それぞれの人と、それぞれの匂いと、それぞれの部屋と。なんかさ、いいよね。」
今度は紗希子が言った。
「そうだよね。なんか、いい。」
と弥生は答えながら、良則との3部屋の記憶よりも、意外な記憶が心に浮かんできて驚いていた。
初めて付き合った春樹さんの部屋の記憶は、一度も彼が足を踏み入れた事のない、弥生の実家の畳だったからだ。
思い出すのは、ミニスカートを履いた弥生の今よりも白くて細い膝と、その近くにだらんと伸ばした手。そこに握られている薄ピンク色の携帯電話。日に焼けている畳。
春樹さんは社会人で、弥生は高校二年生だった。
春樹さんは会社の寮に住んでいて、弥生が彼の部屋に入ることはできなかった。
思い出すことといえば、実家の畳の上で、春樹さんからのメールを待っている風景ばかりだった。
春樹さんの車の匂いも鼻をかすめたが、実家の黄色い畳が、2人の間の最も重大なキーアイテムであるかのように覆い隠してしまう。
頻繁に会ってくれなかったわけでもない。
アルバイトをしていた弥生が特別暇だったわけでもない。
いつも行く、決まったラブホテルの部屋もあった。
それでも、弥生にとって春樹さんは、圧倒的に実家の古い畳なのだと思うと、幼かったのだと、認めざるを得なくなった。
「2人の景色を決めるのって、なんなんだろうね。」
と弥生が言った。
2人の景色という言葉が紗希子は気に入った。
弥生と紗希子の景色は、紗希子の家の前。夕方から夜にかけて、自転車にまたがった、中学の体操服姿の2人だ。
あの日からずっと、弥生と紗希子は間が空くことがあっても、話し続けている。
カフェで出てくる飲み物を、一気に飲み干さなくなったのは、大人になったからだ。
付き合うとか、別れるとか、そういうところとは別の場所に、お互いが居てくれることを、感謝できる2人は仲が良い。
「祐介さんも、健全そうでよかった。」
と紗希子が言うと、弥生は照れ臭そうに笑った。