本棚

小説 / エッセイ etc. twitter: @_sakurai_m

愛の夢 #1

愛の夢#01

 


「ああこの夕方の匂いは君と過ごした夏と全く同じじゃないか。」

 


口に出してみたら、何か劇的な、ロマンチックな現象が起こらないかと期待したけれど、無駄だった。

網戸にして、タイマーをセットしていた扇風機はとっくに動きを止めたようだった。

ものすごい汗と息苦しさで目覚めると、畳中を真っ赤な夕日が照らしていた。

僕のすね毛の生えた脚は汚いし、足元に転がっている文庫本は、何度か蹴ってしまったんだろう。変な開き方をして、ページが折れてしまっている。

寝転んだまま腰をくの字に曲げて、文庫本を手に取ろうとした時、背中側には缶ビールがあったのではないかと思い出して、一気に身体が緊張した。

首だけを曲げて確認すると、缶ビールは倒れずにそこにじっとりと立っている。

彼が佇む場所は、結露でビッショリとしめっており、「畳がダメになる!」という祖父の声が聞こえてきそうだと思った。

足元の文庫本はそうはいかなかったが、缶ビールの無事の奇跡を喜んでそうっと仰向けになり、よくこんな感じで君とキスをしたな、と思い出した。

うっとりとするようなキスをしていても、僕たちは脇にあるビールやらワインやら、時には縁日でふざけて買ったラムネやらを、こぼしたことは一度もなかった。

君と過ごした部屋はフローリングで、天井は白く、僕たちはベッドで手を繋いで眠っていた。

扇風機ではなくてエアコンを使っていたし、君がよく洗濯してくれた冷感素材のタオルケットは清潔だった。

西側に大きな窓があるのを、君はこの部屋の一等気に入っているところだと言っていた。

同じなのはこの部屋の中の真っ赤な夕日だけだというのに、日焼けて真っ黄色な畳も、木目のある天井も、僕のこのけむくじゃらの脚でさえ、懐かしく美しい君との記憶の一部のように感じられるのは何故だろう。

君が僕の心に住み続けて、もう6回目の夏だ。

一緒に過ごした夏は5回しかなかった。

君と過ごした回数を季節で数えるとなんと少ないことだろう。

人生において僕が5回しかしていないことなんてほとんどないのではないか。

しかも手を繋いで過ごした夏は4回しかなかった。

人生において僕が4回しか経験していないことといえば、誰かを泣かせたことくらいだ。

1回は父親、3回は君だ。

僕の人生の4分の1は父親で、4分の3は君だったということだ。

君を僕の心から追い出せだとか、新しい女を住まわせるべきだという愚か者もいるが、どうやら僕のことを思って言っているらしいので、最近は反論もせず、ダラダラと頷くようにしている。

 

鼻いっぱいで息を吸う。

ああやっぱりこの夕方の匂いは君と過ごした夏と同じ匂いだ。

君が好きだった輪切りの入ったレモンのシャーベットを思い出した。

タンスからどうでもいいジーンズを引っ張り出し、寝汗でびっしょりだったTシャツは一応新しいものに変えた。

ガチャガチャと音を立てて下駄箱の上のカギを取り、僕は尻ポケットの財布を確認しながら、コンビニにアイスを買いに行く。